はーい、あっちです(^_-)-☆
今日のテーマは、前回の「自分の健康に責任を持つ」の続きで「自分の心に責任を持つ」だよ。周りに気を使いすぎてビクビクしたり、疲れたり、それで心が病んだり、メンタルがとても弱かったわたし。でも、色~んな体験を乗り越えていくことで少しずつ、心が強く成長してこられたの!
「自分の心に責任を持つ」ってどういう意味?
それが「自分軸の人生」「責任主体の生き方」につながっていくってどういうこと?
わたしの体験をみんなにシェアしながら、自分の心に責任を持った責任主体の生き方について、一緒に考えていけたら嬉しいなって思います♪
それでは、Let’sすたーてぃん♪
こんな風に周りを気にしすぎでメンタルが弱かったわたし。保育士として働いていた頃、いじめっ子タイプ?な感じの先生方と五歳児クラスを受け持っていたんだけど……
自分で自分を追い詰めていた?
心を病んでしまった保育士時代
言葉も目つきも鋭くて圧迫感のある二人の先輩先生。あからさまにイラついた態度を取られたり、わたしだけシカトされたり、圧力かけられたり、色々だったなぁ。当時のわたしは養成学校卒業してまだ間もない頃。保育士として全然ダメダメ。そんな自分を責めて、先生方におびえて、子どもたちにもおびえて、自分をどんどん追い詰めていってしまったの。園長先生はじめ、他のクラスの先生方は優しそうでいい感じの方々が多かったのだけど、わたしは一人“オオカミたちの檻(おり)”に閉じ込められてしまったように感じていたのよ。
そしてとうとう心を病んでしまった。
仕事に行こうとすると恐怖で心臓が苦しいくらいに鼓動が速くなって、息が苦しくて、めまいがして、吐いてしまって、毎朝毎朝そんな強いストレス反応が本当に辛くて、本当に苦しかった。職場に行くことができなくなってきた。
園長先生が相談にのって下さったり、わたしが保育を学んだ短大の先生がわざわざ現場の保育園にまで来てくださったり、心ある方々が尽くしてくださったのだけどね。
それでも「もうダメ……耐えられない……」って、ついに心の糸がぷっつりと切れてしまったの。間もなく退職。当時のわたしにとってあの日々は地獄のような2ヶ月間だった。
療養期間を経て入り直した次の保育園は0,1,2歳児までの小規模園。ご夫婦が経営なさっていたアットホームな雰囲気の場所だったの。優しい先生方。一歳児クラスの担任になったわたしはそこでも自分で自分を追い詰めてしまった。ストレスからくる過呼吸&吐き気という発作と闘いながらもなんとかなんとか節目の年度末までは続けたよ。
あのいじめッ子先生たちと一緒だった時みたいに“地獄”みたいな苦しみじゃない。でも、保育士という仕事はどこに行ってもわたしのメンタルを蝕んでしまった。なぜか自分を追いつめてしまう。保育以外のアルバイト期間を間に挟みながら、過呼吸と吐き気と闘いながら、いくつもの保育園を入ったり辞めたり。心温かな優しい先生方ばかりだったのに、だよ? 人数少なくて労働状況が過酷過ぎた園、自宅近くで通いやすい園、色々な園があった。
自分で言うのもなんだけど、わたし、すごくまじめに頑張ってたって思う。ある時、「保育園がダメなら、小学生相手の学童クラブに挑戦してみよう! 今度こそ!」ってチャレンジした。これで最後にしようって。でも、ダメだった。ずっと抱えてきた性別違和もあって、子どもたちや先生方から“男の先生”として期待されるストレスがさらに強くなってしまった。求められる性別と心のギャップがあって、そんなわたしには小学生の男の子たちはすごく乱暴で怖すぎた。
あのいじめっ子先生達と一緒の時のような、激しいストレス反応と発作が起こるようになってしまった。今度こそ、これが最後だって強い決心で望んだけど、やっぱりダメだった。「わたしには保育士は無理だ」って最後通告が突きつけられた。
そして訪れたメンタルクリニック。もう何軒目だろう?
仕事に行けなくなって……精神科に通って……仕事辞めて……また別の園に入って……でもまた同じことの繰り返しで……何度も何度も同じループの繰り返しで……
都内某所。夕方。メンタルクリニックの帰り道。地下鉄の駅に向かいながら思った。
ダメ人間ダメ人間ダメ人間ダメ人間ダメ人間ダメ人間ダメ人間……ダメ人間……
高校を卒業して入学したいわゆる私立の難関大学。両親はとても喜んでくれたけど、対人恐怖症や適応障害の心の病になってしまい、卒業できずに終わってしまった。わたしの挫折に満ちた人生の始まりだった。
人生の再起をかけて、両親に高い授業料を出してもらって保育士学校に入りなおした。「資格を取ってちゃんとした仕事に就くんだ」って。メンタルを病みそうになりながらもやっとの思いで卒業して人生初の資格を取ったのに……わたしの唯一の資格なのに……
それも、無駄になってしまった……
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……こんなにダメで心配ばかりかけて親不孝な子で本当にごめんなさい。こんなに情けない子で本当にごめんなさい。
心がもう、ボロボロだよ……この先、どうやって生きていったらいいの? もう希望も何もない……疲れた……もう……生きるのに疲れたよ……
でも……そんな心のどん底でこう思ったの。
大粒の涙があふれて止まらなかった。
挫折だらけでダメダメなわたしの人生。たくさんたくさん苦しんだわたし。コンプレックスだらけのわたし。でも、だからこそ、同じように苦しんでいる人の気持ちが痛いほどわかる。
わたし、そういう人たちの心に心底寄り添って、少しでもお役に立てる人になりたい……ううん、なるんだ!!
そして実行した。
やっと、やっと、やっと、やっと伝えられた……
それからの二年間は本当に激動の二年間だった。今までのわたしの人生が、ある意味、我慢して自分を押し込めるように生きてきたわたしの人生が、根本から揺らいで再生されていく始まりだったのかもしれない。
ここに具体的に書くことはできないけど、とても悲しいことが判明したし、驚くべきことも起こった。家族ってなんだろう? 親子ってなんだろう? 血のつながりってなんだろう?
とても大きな事と向き合いながらも、わたしの心は不思議と穏やかで安定していたの。揺るぎない芯があって、希望があって、困難に向かいながらとても充実していたの。「本当の自分を生きている」っていう実感があったのよね。
そして気が付いたの。
困難を一つ一つ乗り越えるたびに、自分の心が強くなっていくのを感じる……心がゆるぎなく、安定して、深くなっていくのを感じるって。
ああ……嬉しい……
そしてありがたい……
神様、ありがとうございます。
わたしにこのような試練を与えてくださり、本当にありがとうございます。
困難の数々を通してわたしの魂を強く深く成長させてくださり、ありがとうございます。
深~い深~い感謝の感謝の念が心の奥底からとめどなくあふれ出て、自然と手を合わせている自分に気づく。
どんなことも、受け止め方は自分の心の在り方しだい。わたしは一つ一つ乗り越えるにあたって、責任の主体は100%わたしにあるととらえ、真摯に受け止め、起こるすべてを魂の成長のための課題として取り組んでいった。
「自分の心の何がこのことを引き起こしたのか?自分が知らぬ間に過去に蒔いたその結果としての今がある。それを一つ一つ、心を込めて刈り取っていこう」
たとえ相手から「あなたが悪い」と責められ非難されても、わたしは決して相手を責めない。相手のせいにしない。相手のせいにして相手のせいにしている限り、相手を責めている限り、自分の心は決して成長しないから。
とたえ“逆ギレ”されたと思っても感情的にならず、あくまでも客観的な事実と論理的な根拠を伝え、疑問があれば率直に尋ね、相手の言い分を聞き、その上で自分が感じたことをI(アイ)メッセージとして伝える。「そうなんだね。あなたの言っていること、わかったよ。受け止めたよ。それに対してわたしは○○と感じたの。どうかな?」って。
自分の内面を見つめて正直で誠実でいる限り、心はクリアで不安も恐れもない。それでいて、自信と覚悟と決意に満ちている。相手に対しても自分自身に対してもただ誠実に向き合い続けるだけ。ただそれだけなんだ。
そして……色々とあって、今、一人になったわたし。
立ち止まって、振り返って、あらためて思う。あんなにも弱かったわたしの心がいつの間にかこんなにも強くなったんだなって。
辛かった保育士時代も含めて、一つ一つの試練がわたしの魂を鍛えてくださるための神様からの贈り物だったって、今、心の底からそう思う。本当にありがとうございます。
なんて得難い経験の数々。なんて愛おしいわたしの人生。
今……わたし……これまで生きてきた中で一番幸せです。
ありがたい……ありがたい……心底あふれ出る感謝の思いで、知らぬ間に、気づくと、手を合わせている自分がいる。
神様、ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
同じような状況にあっても、わたしの心の反応が以前とは違ってだいぶ楽になっていることに気が付いた。
理不尽と思えることが身にふりかかってきても……
↓
「目の前に現れたこの課題に、真摯に誠実に取り組んで乗り越えていくぞ!!」ってとらえるようになったのよ。一つ一つのりこえて自分が精神的に成長してこられたという体験の積み重ねが、自信につながっているような感じがする。目の前の「問題」の先には成長の喜びという希望の光が待っているのがわかるから。
今回は「自分の心に責任を持つ」というテーマで書いてきたけど、ほんと、同じような状況下でも、人によってその捉え方、感じ方、その上でどう対応していくかっていうのはそれぞれ違うよね? 同じ人の中でも、心のコンディションが違えば、感じ方は変わってくる。嬉しいことがあった時は寛大に許せるってことでも、ストレスを抱えていて心にゆとりがなければ、同じことでも許せなくなるみたいなこと、あなたにも体験ないかしら?
大きなスパンで見れば、年齢を重ねたり、色々な経験を経ることで心が成長して、感じ方や捉え方がかわっていく。だから「自分の心に責任あるを持つ」という言葉は「自分軸の人生」「責任主体の生き方」ということにつながるのだとわたしは思うの。
生きていれば、辛い時、むかついちゃう時、悲しい時、色々とあるよね? そんな時、自分のその感情を起こった出来事や相手のせいにして責めたり嘆いたりするのは簡単なこと。でも、責任主体という視点から自分事としてとらえて誠実に向き合っていくと、いつの間にか解決に向かっていくだよね。または、たとえ状況は変わらなくても、心の感じ方や捉え方が変わって「大丈夫」って思えるようになる。それって、自分が精神的に成長できたってこと。ふりかかる困難も「自分を成長させてくれる課題♪」として向き合うこともできちゃうんだ。
わたし、今なら胸を張って言える。
「わたしはダメ人間なんかじゃない。親不孝なんかじゃない。困難に負けずに自分らしく精一杯生きている」って。